東大寺境内にある鎮守社

東大寺の境内には小さな祠の鎮守社が複数あります。ここでは、それらを紹介したいと思います。元東大寺別当の平岡定海(ひらおかじょうかい)著の東大寺辞典と由緒板の内容を引用しました。

飯道神社 いいみちじんじゃ

 本社は滋賀県甲賀郡雲井の海抜六六四メートルの飯道山の直下にあり、和銅四年(711)勧請された修験道の霊場でもある。奈良時代に神宮寺として飯道寺がり、明治期まで存在していた。
 二月堂の南東にある当社は、弘安六年(1283)頃にその井垣が修理されているので、鎌倉中期以前からその存在が確認される。ただし、二月堂寛文の再建にあたり形式の変更があった模様。
(飯道神社 由緒版より)

なお、東大寺辞典には次のように記載されています。

本社は滋賀県甲賀郡雲井の海抜六六四メートルの飯道山の直下にあり、和銅四年(711)勧請された修験道の霊場でもある。奈良時代に神宮寺として飯道寺がり、明治期まで存在していた。
 二月堂の南東にある当社は、弘安六年(1283)頃にその井垣が修理されているので、鎌倉中期以前からその存在が確認される。ただし、二月堂寛文の再建にあたり形式の変更があった模様。
(飯道神社 由緒版より)
滋賀県甲賀郡雲井村大字宮町にある。祭神は伊弉冉尊、速玉男命、事解男命で、元明天皇の和銅四年(711)熊野本宮より勧請され、武内社となっている。また宝亀二年(771)には近江国で神封を与えられ、元慶八年(884)に従四位上と位階が昇った。またこの神社は信楽町と甲南町の境にある海抜六六四メートルの飯道山の直下にあって、修験道の霊場でもある。奈良時代に神宮寺として飯道寺があった。これは明治の廃仏運動まで存在していた。本殿は重要文化財で、桁行三間、梁間三間、一重の入母屋造り、檜皮茸、正面に千鳥被風と軒唐破風をつけている。擬宝珠に慶安三年(1650)の銘があるが、組み物等は桃山時代後期の様式をそなえ、また二月堂お水取の勧請神としても知られている。
(東大寺辞典/平岡定海 著)

五百立神社 いおだてじんじゃ

当社は五百余所社(ごひゃくよしょしゃ)とか五百立神社と称せられる。五百余所社の社名は天喜四年(1058)五月の東大寺文書に二十五所社・気比気多社などとともにその名が見える。
 中世の絵巻などには、大仏殿創建に従事した五百余人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話が見える。本来の祭神は定かではない。
 大仏殿は江戸期再建の際にも、五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ、宝永六年(1709)三月の大仏殿落慶供養を目前にした五月六日に、大工棟梁堀内筑前守(若狭)が新建寄進している。
(五百立神社 由緒板より)

遠敷神社(若狭彦神社)おにゅうじんじゃ

二月堂の北東にあるが、様式から判断すると十九世紀の再建と思われる。遠敷明神が閼伽水を献じたとの伝承は「東大寺要録」に載っており、平安時代にはすでに二月堂近辺に勧請されていたことと想像される。中世の絵画には他の二社とともに描かれている。
(遠敷神社 /由緒板より)

なお、東大寺辞典には次のように記載されています。

 若狭国の一の宮で、上社と下社に分かれている。上社は小浜市遠敷町龍前に、下社は選敷に鎮座して、上社の主神は若狭彦神で、また海の神の彦火々出見命を指し、下社は若狭比咩神で豊玉姫を指すといわれている。この彦神は元正天皇の霊毛元年(1年)九月一〇日に若狭国遠敷郡西郷内霊河の上流の白石の上に初めてあらわれ、比学神は養老五年(721)二月一〇日に彦神と同所に垂迹され(いま白石神社と称してその地に神霊を祀る)、ともに若狭大明神、あるいは遠敷明神と称している。
天長六年(829)和朝臣宅継を神主とし、清和天皇貞観元年(859)正月一七日に正二位として若狭一の宮とされた。垂迹の地の白石神社の近くに鶏の瀬があって、ここが二月堂の若狭井の水源とされ、神宮寺を中心とする「お水送り儀式」が毎年三月二日に行われる。またこの白石社には「宗」の銘のある重要文化財の太刀一口が存在している。
(東大寺辞典/平岡定海 著)

辛国神社 からくにじんじゃ

 大仏殿の東、猫段と呼ばれる石段を登った北側に南面した春日造りの小社で天狗社とも呼ばれるが、市内の阿字万字(あぜ豆)町の人々の間では辛国神社(からくにじんじゃ)として崇敬されている。石灯籠などの刻銘から、明治三十六年前後から天狗社が辛国社という名称にかわったようである。
 当社の創立については明らかではないが、嘉吉三年(1443)に天狗社の名がみられるから鎌倉時代ごろまで遡るのではないかと思われる。
 江戸時代の東大寺諸伽藍略録には、当時創建の奈良時代に良弁僧正がさまざまな障害を加える多くの天狗を改心させて、仏法護持を誓約させ、当社を造り「大法会執行の時には、必ず此社に向かって正法護持を祈る」と明記している。
 現在も大法要執行の折には、開白前日の夕刻に「蜂起の儀」として大湯屋に集会し、当社の前で僉議文を読み上げ、境内を巡察することになっている。
 中世には強訴のための八幡神輿の動座や遷宮或いは犯人検挙などの場合は、必ず蜂起の儀が行われ、当社の閉める比重も高かった。
(辛国神社 由緒板より)

一方で、東大寺辞典には次のように説明されております。

韓国社ともいい鐘楼の西に鎮守として祀られている。辛国の名は奈良時代より氏族名に見えて韓国より渡来したという意味で、東大寺写経所の経師になった辛国東人(天平三<731>)辛国連形見、人成、毛人があり、画師として辛国連広山、楽人として辛国物主、道士として辛国連行がある。そのほか、辛鍛治広浜等の経師もあるが、学園氏は微治の技術もそなえ大仏鉄造のときの技術者の辛国氏の祖神を祀って、あたかも大仏鋳造の鋼湯を作成し流したという。この鐘機の丘の大仏を見通せるところに祀ってある。
(東大寺辞典/平岡定海 著)

由緒板と東大寺辞典の内容が違いすぎて驚きです。藤井寺にも辛国神社があるようでこちらと関係があるのかないのか謎です。

興成神 こうせいじんじゃ

修二会行法を守護する三社(興成・飯道・遠敷)のひとつで、遠敷明神が若狭より送水された折、黒白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出て、そのあとから甘泉湧出したのが若狭井(わかさい)で、鵜をまつったのが興成神社である。平安時代には「能く不死薬を取りて人に与え食せしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願をもつ菩薩として信仰されていた。平安期には既に鎮座していたと想像される。八大菩薩として現存しているのは当社だけである。
(興成神社 由緒板より)

なお、東大寺辞典には次のように記載されています。

二月堂の周辺にまつる三社のうちの一つで二月堂の直下、良弁杉の左にある。建物は寛文年間のものとおもわれる小祀で、東大寺では八大菩遊の一つとし、興成大菩薩と称し不死の妙薬としている。人々に長寿を与える神としてたたえられ、関伽井に出かける呪師は一二日の真夜中に下堂して、まずこの興成大菩産に祈願をこめて閼伽井に入るのである。東大寺の八大菩族は興文、興成、興松、興明、興見、興剣、興進、興高大菩薩で、東大寺周辺の地主神である。いずれも二月堂神名帳の初段に読みあげられている神々で、その神社は寺城周辺に散在している。
(東大寺辞典/平岡定海 著)

子安神社 こやすじんじゃ

大仏殿と指図の間に、白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神とよばれる小社がそれである。
 東大寺の古図には、この子安宮の位置に神社が描かれていて「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたらしい。平成元年に当社の解体修理が行われた際、社殿内より寛文十一年(1671)九月二十四日と文久二年(1862)の日付の遷宮の棟札二枚が発見された。そこから中門堂衆の文殊院によってすでに改築されていたことが明らかになり、子安宮の称号が十七世紀に遡ることも判明した。
  二月堂神名帳には「子安大明神・穴師大明神」と子安明神の名が見えるが。この子安神は他国の明神である。享保年間(1716~1735)の東大寺諸伽藍略録に」よると、良弁僧正の母を祭祀したと言い、「相模国からこられた母がここに住し、良弁は孝養をを尽くした」旨の説明がなされ、「孝養社」と言ったとも記されている。寛文の頃は、ちょうど二月堂の消失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通して、良弁・実忠二人の祖徳が顕揚された時期でもある。
 安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。
(子安神社 由緒板より)

厳島神社

由緒板も見当たらず、東大寺辞典にも記載がなかったのでよくわかりません。
祭神は弁財天(市杵島姫命)とのこと

白山神社

由緒板も見当たらず、東大寺辞典にも記載がなかったのでよくわかりません。
全国各地にある白山神社と関係があるでしょうか。

鎮守社がある場所

                       (転害門バス停付近の地図をベースに作成いたしました)

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